読本「本当は怖い小学1年生」

長女が「こども図書館」に行きたいというので仕事の合間をぬって連れて行く。長女が小学1年生ということもあり、ディスプレイされていたこの本に目が留まり借りて読む。

授業が始まってもじっとしていられない、先生の話を聞くことができない、遊びだす等、小学校低学年で発生するいわゆる「小1プロブレム」は、そもそも学びの面白さが感じられないという子ども達の抵抗感の現れである、から始まり、
早期詰め込み教育の問題点、親の過剰な関わり、創意工夫を遊びの中で育むことができた豊かな自然環境(原っぱ)の喪失、コミュニティの喪失、時代のニーズである個性や多様性を尊重するには不向きな一斉教育スタイル等、現在の教育課題を多く指摘する本でした。

全て「あー、、その通り」と頷ける内容であるとともに、課題が多すぎるなぁ・・と感じました。すぐにどうにかなるわけではないけれど、子ども達と現場をよく見ながら、前進策を模索していきたいと思います。

以下、考えさせられる抜粋の概要。

早期教育の問題点 「知っている」のに「分からない」
理解するには語彙だけでなく、その語彙の表す内容についての「体験」が必要で、その体験によって語彙に「感情」や「価値判断」をまぶして意味にしていかなければいけない。人は、その一般的な語彙で理解するのではなく、一人称化して「私」にとって意味という層をつくって理解する。

つまり早期教育は、頭でっかちの「分かったつもり」人間を大量にうみだすことにつながり、子どもに「知っている」のに「分からない」分裂状態を強いていく。子ども達は「知っている」のに「分からない」自分を責め、親に言われるがままに勉強する。無理な早期教育は、ある意味子どもを虐待していることにも誓いと私は考えている。

学びの場の喪失  「指示待ち」の子ども、「放任された」子ども
林間学校などの課外授業で、外に出ても自分から動き出す子どもが少なくなった。「何をしたらいいの?」「ゲームが無いからつまらない」と大人たちの指示が無ければ動こうとしない。

自主性や主体性を一番に発揮し、育むことにつながるのは「遊び」だ。だが戦後日本社会の都市化によって、子ども達は最大の遊び場である「道端」や「原っぱ」を失った。ここには遊具があるわけではない。学校が終わるとまず何をして遊ぶかを考える所から子どもの時間は始まった。

昔は、原っぱや道端、河原、境内などの「近所」という地域社会の中で、子ども達が自由に「放任」されて育ってきた。その中では異年齢の子ども達が関わり、その中では厳しい子ども達の掟があり、その中で仲間に入ることを学んだ。
また、家庭においては下の子の面倒を見る、お使いをするなどの親の手伝いなどを通じて、子ども達なりの「仕事」がいくらでもあった。

つまり昔は、一見無秩序である子ども社会の中で、規律を作り、秩序や道徳観を自然に学んでいく土壌があった。大人からわざわざ教えてもらえなくても自分たちの世界の中で行動の術を習得できる場と機会を持っていたのだ。